レフ・トルストイ『アンナ・カレーニナ』の詳しいあらすじ

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第八編

 二ヶ月後、コズヌイシェフは友人のカタワーソフとともに、リョーヴィンを訪れるためにモスクワを離れる列車を待っていました。停車場に行くと、義勇兵の一団がやってきました。それを出迎えたある貴婦人が、ヴロンスキーが次の列車で出征するために志願したことを伝えました。
 ヴロンスキーは自費で中隊を編成し、それを引率するようでした。ヴロンスキーが車室へ姿を消していきました。コズヌイシェフとカタワーソフも、列車に乗り込みました。
 停車駅でコズヌイシェフが歩いていると、車窓にヴロンスキーの母親の伯爵夫人が見えたので話しかけました。伯爵夫人によると、アンナの死後、ヴロンスキーは現場へ飛んでいき、死人のように運ばれて、虚脱状態の後、狂乱状態に陥りました。しかし、ヤーシュヴィンが賭けで財産をすってセルビア戦争に向かうことになり、ヴロンスキーに声をかけたところ、その戦争に向う事だけがヴロンスキーの興味の対象となったようでした。コズヌイシェフは、戦争に向かうヴロンスキーに敬意を表すために話しかけました。ヴロンスキーはアンナの残酷で復讐心に燃えた死に顔を見て、共に過ごした最も良い時期をも思い起こすことができなくなっていました。その復讐は見事に成就し、ヴロンスキーは自分を人間の廃墟のように感じ、自分を武器として戦争で使うことを決意したのでした。

 コズヌイシェフとカタワーソフは、リョーヴィンの家に着きました。
 キティは乳飲み子のミーチャの面倒を見ていました。キティとミーチャには、もう立派な絆ができあがっていました。
 リョーヴィンが信仰を持っていないことは、キティを不幸にはさせませんでした。彼女は夫を深く愛し、夫のことを誰よりも優しい人だと思っていました。それなのに夫が信仰を持っていないというのは、キティにとっておかしなことでした。キティは子供が夫のように育つことを望みました。
 リョーヴィンは、ニコライが死んでから、自分とは何者なのか、何のために生きているのかということを考え続けてきました。彼はあらゆる書物の中にその答えを探しましたが、何一つ発見することはできませんでした。そしてそのことで悩み抜き、時に自殺を考えることすらありました。しかしそのうちに生活がしっかりしてくると、そのようなことは考えなくなり、自分が全く価値のないものとして信仰を考えていたことは誤りであったことに気づきました。以前国のために良いことをしようと思って行動していた時よりも、自分の周りだけのことを考えている今は、自分の仕事が必要なものであるという自信を得ることができました。彼はそのために農事経営をしっかりと行わなければなりませんでした。自分が行なっていることがいいのか悪いのかもわからず、自分とは何なのかという問いの答えを見つけることもできませんでしたが、自分が生活のために行なっていることをやめるわけにはいきませんでした。
 リョーヴィンは、運び人夫から、屋敷番のキリーロフが抜け目なく至福を肥やしていると言って避難し、その村の金持ちの百姓プラトンは、神様の掟に従って、時に金を貸してやり、返済を勘弁してやることもあると聞きました。
 その時、リョーヴィンは、「キリーロフのような生き方はよくない」ということを、何の考えもなく理解しました。それと同時に、「私腹を肥やす」ということは、利益を求める人間の理性によって説明できるのに、「私腹を肥やすのはよくない」といったことは、理性によって説明できないにも関わらず、人々はそれを疑わずに信じていることを発見しました。つまり善とは、自分が何をするために生きているのかということは、理性を超越したものであり、その理性を超越したものこそが、奇跡であることをリョーヴィンは悟りました。
 そして、欲のためだけに生活をしないというのは、理性によって知ったものではなく、もともとリョーヴィン自身に与えられたものでした。それが教会で教えている信仰と一致していることに気づいた彼は、自分が最初から信仰というものを持っていたことを初めて理解し、涙を流しながら神に感謝しました。
 重大なことに気づいたリョーヴィンが生活に戻ると、やはりちょっとしたことに気を揉んだり、苛々としました。しかし、自分の身内に新しい重大なものが生まれたということは、心の中に残り続けました。
 リョーヴィンは、コズヌイシェフやカタワーソフと、戦争について語り合いました。リョーヴィンは、戦争とは、政府によって始められるもので、個人の意思を各々が放棄して参加するものだと考えていました。コズヌイシェフは、同胞が殺戮されているということに義憤を覚えたロシア人が、自ら立ち上がるものだと反駁しました。
 リョーヴィンは、ロシアの八千万の民衆のほとんどが、何のために戦争が行われることを知らず、自分の意思を表明することなしにその事実を享受しているので、戦争を民衆の意思だと呼ぶ権利などはないと主張しました。リョーヴィンにとって戦争は、決して許されざるものでした。

 そのうちに驟雨がやってきました。キティが外にいるのではないかと聞いたリョーヴィンは、激しい雷鳴が落ちるのを見て、キティとミーチャの身を心配し神に祈りました。
 二人の無事を確認し、安心したリョーヴィンは、身近な人の区別ができるようになってきたミーチャを見て、自分がこの子供をどれだけ愛しているのかを理解しました。
 リョーヴィンはこれからも、自分が些細なことに感情を乱されるだろうということを知っていました。しかし、先ほど自分の中に芽生えた感情により、自分の生活が善の意義を持っていることを実感することができるようになっていました。